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 社会 歴史上の人物 蘇我入鹿 (そがのいるか)
               出典 学習教材の部屋BIGLOBE
 
●活躍した時代   ?年〜645年    飛鳥時代

●活躍したこと

622年 聖徳太子が亡くなる。

626年 蘇我馬子(そがのうまこ)が亡くなる。
蘇我馬子(そがのうまこ)の子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣(おおおみ)になる。

蘇我蝦夷が自分の子の蘇我入鹿に冠位十二階で最高位の紫冠(しかん)を与える。
屋敷を御門(みかど)と呼ばせたり、自分の子を王子(みこ)と呼ばせ たりする
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蘇我氏が政治をほしいままにし、自分が天皇であるかのようなふるまいをする。

628年 推古天皇(すいこてんのう)が亡くなる。
蘇我入鹿は次の天皇に、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)をしりぞけ、田村皇子(たむらおうじ)をたてる。
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田村皇子(たむらおうじ)が舒明天皇(じょめいてんのう)になる。

642年 蘇我入鹿が勝手に人民を集め、蘇我氏の墓を作る。

643年 蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)の屋敷に攻め込み、山背大兄王を自殺させる。
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天皇家の人びとや他の豪族が蘇我氏の横暴に怒りをもつ。

644年 蘇我入鹿と父の蘇我蝦夷(そがのえみし)が戦争にそなえて自分の屋敷を建て直し、厳重にする。

645年 蘇我入鹿が朝鮮からの使者と会見中に中大兄皇子や中臣鎌足(なかとみかまたり)に暗殺される。
父の蘇我蝦夷(そがのえみし)が屋敷に火を放ち、自殺する。 


●人 物 評

  蘇我入鹿は、結局、やりすぎたということであろう。聖徳太子の名声はとどろいている。当然、その子の山背大兄王も人びとから尊敬を集めていることになる。しかも、聖徳太子は天皇家の一族であり、その子を殺すということは天皇家に反逆することと同じことであった。弱い者も打たれ続ければ、強い者に牙(きば)をむく。蘇我入鹿は、強い者としての心は分かっても、弱い者の心を理解できなかったのであろう。蘇我入鹿は政治のことよりも、まず弱い立場にいる者の心を知るべきであった。
  「おごれる者も久しからず・・・・。」 


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