166
 社会 歴史上の人物 聖徳太子 (しょうとくたいし)
          出典 学習教材の部屋BIGLOBE

   ※ 幼名 厩戸皇子 (うまやどのおうじ)
●活躍した時代   574年〜622年   飛鳥(あすか)時代

●活躍したこと

574年 用明天皇(ようめいてんのう)の子として生まれる。
宮殿の馬小屋の近くで聖徳太子が生まれそうになったので、子どものころは、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言われた。
子どもころに、10人の話を聞き分けたという伝説もある。

587年 神道派の物部氏(もののべし)と仏教派の蘇我氏(そがし)が対立する。
物部守屋(もののべの もりや)と蘇我馬子(そがの うまこ)との戦争が起こる。
        ↓  
物部守屋をほろぼす。

592年 蘇我馬子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)を殺す。

593年 推古天皇(すいこてんのう 女性)の摂政(せっしょう)(天皇を助けて政治をする 最高の官職)になる。

601年 斑鳩宮(いかるがのみや)をつくる。

603年 官位12階(かんい12かい)をきめる。
身分ではなく、個人の才能で役人を登用する制度

604年 17条の憲法(17じょうのけんぽう)をきめる。
役人の政治をする上でのルール
        ↓ 
蘇我馬子の権力をおさえる。
天皇中心の政治の基礎固めをする。

607年 小野妹子(おのの いもこ)を中国(隋)(ずい)におくる。(遣隋使 けんずいし)
         
中国(隋)の文化がつたわる。
法隆寺(ほうりゅうじ)ができる

620年 日本の歴史書の「天皇記」(てんのうき)と「国記」(こっき)をつくる。(現在は残っていない。)

622年 死 去(49才) 
       ↓
蘇我馬子が権力をにぎる。

643年 蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(そがの えみし)、孫の蘇我入鹿(そがの いるか)が、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と一族をほろぼす。


● 人 物 評
 それまで、大和朝廷は豪族の勢力が強い豪族連合の国家であった。そのため、崇峻天皇の暗殺という事件さえおこった。そのため、聖徳太子は、豪族の上に天皇がたつ天皇中心の国家づくりをはじめた。官位12階も17条の憲法も、天皇中心の政治を行うための手段であった。蘇我馬子のじゃまもあったが、聖徳太子は天皇中心の政治を着実に進めていった。聖徳太子の功績は、天皇の確固たる地位をかためた点であろう。聖徳太子のめざした天皇中心の政治は、死後に実現することになる。


教養の目次へ

トップページへ