令和8年07月19日(日)
5640歩・12254ポイント → be数独(土曜)解読できた → 玄関網戸ネズミ対策完了 → 数独のホームページへの投稿の準備をしました・靴下修理をしました
昨日は薄曇りの朝を迎えました。
ペットボトルを設置しましたが、布団は止めました。
be数独(土曜)の解読ができました。 
その勢いで玄関の網戸ネズミ対策へ挑戦しました。
当初は順調に進みましたが、途中からくたびれとともに勘が鈍りくたびれました。
一応満足ではありませんが、完了としました。
ネズミ対策はできるものと考えます。
いままでの数独の解答を切り張りをしてホームページへの投稿の準備をしました。
うまくいきませんでしたが、靴下の修理をしました。
夕刻は買い物(米と牛乳)を兼ねてウォーキング60分でした。
国分寺市の優待券2枚目が終わり、残金は現金で払いました。
さすがに6kgの重さには苦労しました。
帰宅後いつものように汗でびっしょりになりました。
本日は薄曇りの朝を迎えました。
キュウリ小さいけれど3本ゲットしました。
北関東で大雨被害 足利で土砂が崩れて住宅倒壊、現場で女性を発見
朝日新聞の記事です。
17日から18日にかけ、北関東を中心に大雨が降り、栃木、群馬両県で被害が出た。
 栃木県足利市小俣町では17日午後10時ごろ、「建物が倒壊している」と119番通報があった。
県警や足利市消防本部によると、住宅裏側の山の斜面が崩落し、大量の土砂が2階建て住宅の1階部分に流れ込み、建物が押しつぶされた。
倒壊した住宅には高齢の夫婦が住んでいたといい、連絡が取れていないという。
市は18日午後、現場で女性が発見されたと発表した。(以下、省略)

各地で大雨が続いております。
山に接した家屋は注意が必要です。



民家に土砂が流れ込んだ現場=2026年7月18日午前10時33分、
栃木県足利市、朝日新聞社ヘリから、吉田耕一郎撮影
 ハンセン病療養所で最大級の監禁施設、半世紀ぶりに姿 記者も確認
朝日新聞の記事です。
瀬戸内海の長島にある日本初の国立ハンセン病療養所「長島愛生園(あいせいえん)」(岡山県瀬戸内市)で、逃げようとした患者らを監禁した「監房(かんぼう)跡」の一部が掘り起こされた。
約半世紀前に埋められたが、建物がほぼ原型を保っていることが確認された。
ハンセン病療養所で最大規模の監禁施設で、国の強制隔離政策の象徴とされる監房の実態解明につながりそうだ。(以下、省略)

ハンセン病患者は隔離されました。
その実態が今明かされようとしております。

 
掘り起こされた長島愛生園の「監房跡」。建物下部に独房の入り口がある
=2026年7月10日午後3時3分、岡山県瀬戸内市、北村浩貴撮影
 イランの攻撃受け米兵2人死亡、中央軍発表 攻撃開始から計16人に
朝日新聞の記事です。
米中央軍は18日、17日にあったイランからの攻撃を受け、ヨルダンで作戦に従事していた米兵2人が死亡したと発表した。
さらに1人が行方不明になっているという。
イランへの攻撃での米軍の死者は16人となった。(以下、省略)

イランとの戦争が続いております、死者が出るのは当たり前です。
一刻も戦争は止めてほしいと思いますが、当分の間続きそうです。

 
テヘランで2026年7月12日、ミサイルを模した置物とイラン国旗のそばを歩く男性。
ウェスト・アジア・ニュース・エージェンシー提供=ロイター
今日は何の日 (出典 雑学ネタ帳)


女性大臣の日(7月19日 記念日)
 1960年(昭和35年)のこの日、第1次池田内閣に中山マサ(なかやま まさ、1891〜1976年)が厚生大臣として入閣し、日本初の女性大臣が誕生した。
 第1次池田勇人(いけだ はやと)内閣は第2次岸信介(きし のぶすけ)改造内閣の後を受けて発足した。
 中山マサの入閣を進言したのは後の内閣総理大臣・大平正芳(おおひら まさよし)である。厚生大臣としての在任期間は5ヵ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。
    
         中山マサ
中山マサについて
 中山マサは、元自由民主党衆議院議員で、中山太郎(なかやま たろう、衆議院議員)は長男、中山正暉(なかやま まさあき、衆議院議員)は四男、また中山泰秀(なかやま やすひで、衆議院議員)は孫である。
 1891年(明治24年)1月19日、長崎県長崎市にイギリス人の父と日本人の母の一人娘として生まれる。地元の活水高等女学校を卒業後、アメリカに渡る。アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業。
 帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。また、弁護士で後に自由民主党参議院議員となる中山福蔵(なかやま ふくぞう)と結婚し、大阪に住む。
 戦後の1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧大阪2区より立候補し当選。以後、当選8回。民主党では、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。
 
保守合同後は大野伴睦(おおの ばんぼく)→ 船田中(ふなだ なか)派に所属。1953年(昭和28年)に発足した第5次吉田茂(よしだ しげる)内閣で厚生政務次官を務める。1960年(昭和35年)、上記のように厚生大臣として入閣する。
 1969年(昭和44年)、四男・正暉に地盤を譲り引退。1976年(昭和51年)10月11日、85歳で死去。

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