令和6年12月16日(月)
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昨日、野中氏の告別式へ参列しました 昨日も朝から太陽が出て、ほぼ一日中晴れの良い天気でした。 気温も適度の上がり、気持のいい一日でした。 午前中は野中氏の告別式へ参列しました。 同僚には全く会えず少々がっかりしました。 きっとお通夜に参列したものと思われます。 本人とは思われないほどやつれておられました。 入れ歯がないとあのようになるのでしょうか。 新しく買った革靴を初めて野中さんの葬儀に使用したことになります。 野中さんと私は似たところがあります。 そのため革靴に縁があったのかもしれません。 帰宅後、疲れもあって缶酎ハイを飲んでしまいました。 夕刻は買い物(焼酎・缶酎ハイ)を兼ねてウォーキング60分間しました。 paypayでの買い物です。 |
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補正予算は規模ありき? 22年度は4割使われず 検査院「説明を」 朝日新聞の記事です。 物価高対策などが盛り込まれた2022年度の補正予算32兆円のうち、4割近い11.7兆円が年度内に使われていなかったことが会計検査院などへの取材で分かった。 当初予算で想定しなかった状況に対応する補正予算は、年度内の執行が原則だが、実現できていなかった。 補正予算のつく事業の必要性に疑問の声が出ている。(以下、省略) 詳しいことはわかりませんが、無駄使いしていないことになるのではないでしょうか。 補正予算の組み方は完ぺきのは推定できないのはないかと考えます。 |
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国民民主の支持率、野党首位に 立憲民主を上回る 朝日新聞世論調査 朝日新聞の記事です。 国民民主党の政党支持率が朝日新聞社の全国世論調査(12月14、15日に電話で実施)で11%となり、野党第1党の立憲民主党(9%)を初めて上回った。 自民党の支持率は24%だった。 国民民主党は2018年の結党後、20年に一部議員が立憲民主党に移り、同年9月にいまの立憲、国民民主の形になった。(以下、省略) 国民民主党が注目されております。 このまま支持率を上げるとは思いませんが、勢いがついていることには間違いないと思われます。 |
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自公維推薦の75歳現職、40歳新顔に敗れる 東京・国立市長選 朝日新聞の記事です。 東京都国立市長選は15日投開票され、無所属新顔で元国土交通省職員の浜崎真也氏(40)が、3選を目指していた無所属現職の永見理夫(かずお)氏(75)=自民党、日本維新の会、公明党、都民ファーストの会推薦=を破り、初当選を決めた。 当日有権者数は6万3411人で、投票率は42.21%(前回37.18%)だった。(以下、省略) 記事によると、投票の結果は、浜崎 真也 無新 13559、永見 理夫 無現 12977だったようです。 600票ばかりの差があったようです。 |
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![]() 初当選を決めた浜崎真也氏=2024年11月13日、東京都国立市、西田有里撮影 |
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今日は何の日 (出典 雑学ネタ帳)![]() 電話創業の日(12月16日 記念日) 1890年(明治23年)のこの日、東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始し、千代田区に設置された電話交換局が営業を始めた。 加入電話は東京155台・横浜44台、電話交換手は女子7人・夜間専門の男子2人が対応した。当時の電話料金は定額料金で東京が40円・横浜35円。この時代、1円で米が15kg買えたため、今の値段にすれば40円は24万円くらいに相当し、当時の電話はとても高価なサービスだったことが分かる。 これよりも21年前の1869年(明治2年)10月23日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、東京〜横浜間で公衆電信線の架設工事が始まった。これに由来して10月23日は「電信電話記念日」、10月20日〜26日は「電信電話週間」となっている。 東京〜横浜間で電信サービスが開始されたのはその翌年の1870年(明治3年)のことである。 さらに、1876年(明治9年)にアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell、1847〜1922年)が電話機を発明すると、翌1877年(明治10年)には工部省が電話機を早速輸入して実験を行い、電話機の国産化に着手した。 そして、上記のように1890年(明治23年)に逓信省により東京〜横浜間の電話交換サービスが開始され、電信・電話は同省の下で運営管理されることになった。 ![]() 電話交換局(八重洲町、1902年頃) 当時の電話には電話交換手という電話の回線をつなぐ業務を行う人がいた。電話局内にある交換台において、一組の電話プラグを適切なジャックに差し込むことで、電話の回線を接続し、電話で話すことができた。そのため、電話をかける時は、最初に電話局の交換手を呼び出し、相手の電話に接続してもらっていた。 |