令和6年07月19日(金)
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昨日、関東地方に梅雨明け宣言がありました 昨日、ウォーキングの後、屋上の農園の整地をしました 昨日はどんよりと曇った朝を迎えました。 その後間もなく太陽が出てきました。 気温も適度に上がり暑い一日でした。 電験の問題つくりに専念しました。 法規の最終問題です。 検討に検討を重ね本日終了の予定です。 気候のせいか帯状疱疹後神経痛の痛みおよび股の湿疹のせいかだるさを感じ、一日中ごろごろしておりました。 健康第一、無理をせず眠くなったら寝るように努めております。 夕刻は買い物を兼ねてウォーキング60分間しました。 適度に汗をかきましたが、帰宅後屋上の農園北側の整地をしました。 サツマイモのための畝つくりをしました。 苗の植え付け6本可能です。 健康であることに感謝しつつ、晩酌を続けております。 本当に私は幸せ者です、ありがとうございます。 本日は朝から太陽が出ております。 |
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堀井学議員、裏金原資に香典提供か 公選法違反容疑で任意聴取へ 朝日新聞の記事です。 自民党の堀井学衆院議員(52)=比例北海道ブロック=が選挙区内の有権者に秘書らを通じて香典を配った疑いがある事件で、東京地検特捜部が、派閥の政治資金パーティー収入でつくった裏金を香典代の原資にした可能性が高いとみて捜査していることが関係者への取材で分かった。 特捜部は、公職選挙法違反の疑いで堀井氏を任意聴取する方針も固めた。(以下、省略) 香典を送り選挙に臨んだようです。 これではお金がいくらあっても足りません。 |
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![]() 堀井学衆院議員の地元事務所に家宅捜索に入る東京地検の係官ら =2024年7月18日午前10時50分、北海道登別市中央町5丁目、松本英仁撮影 |
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島サミットで関係強化図る日本 太平洋で影響力増す中国に危機感 朝日新聞の記事です。 インド太平洋地域において東南アジアとともに米中対立の最前線となっている南太平洋地域。 島嶼(とうしょ)国首脳が一堂に会した「太平洋・島サミット」は、中国の影響力が増す島嶼国を何とか日米陣営に引き入れようとする日本側の思惑があった。(以下、省略) 中国に対するサミット、日本は力を入れております。 私にはよくわかりません。 |
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![]() 太平洋・島サミットの開会セッションでブラウン・クック諸島首相(左)と握手する岸田文雄首相 =2024年7月18日午前9時7分、東京都港区、小林一茂撮影 |
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青葉真司被告「厳粛に受け止めたい」 死刑判決の翌日、面会室で語る 朝日新聞の記事です。 36人が死亡した2019年の京都アニメーション放火殺人事件で、殺人などの罪に問われ、25日に一審・京都地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けた青葉真司被告(45)が26日午後、大阪拘置所で朝日新聞記者との面会に初めて応じた。(以下、省略) 記事によると、青葉被告は死刑判決について「厳粛に受け止めたい」と説明。25日の判決までの心境は「プレッシャーを感じていた」と説明。裁判に参加した被害者遺族らの表情も思い浮かべながら過ごしたと語った。 |
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![]() 事件前、防犯カメラに映る青葉真司被告=2019年7月16日、京都府宇治市、住民提供 |
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今日は何の日 (出典 雑学ネタ帳)![]() 女性大臣の日(7月19日 記念日) 1960年(昭和35年)のこの日、第1次池田内閣に中山マサ(なかやま まさ、1891〜1976年)が厚生大臣として入閣し、日本初の女性大臣が誕生した。 第1次池田勇人(いけだ はやと)内閣は第2次岸信介(きし のぶすけ)改造内閣の後を受けて発足した。 中山マサの入閣を進言したのは後の内閣総理大臣・大平正芳(おおひら まさよし)である。厚生大臣としての在任期間は5ヵ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。 ![]() 中山マサ 中山マサについて 中山マサは、元自由民主党衆議院議員で、中山太郎(なかやま たろう、衆議院議員)は長男、中山正暉(なかやま まさあき、衆議院議員)は四男、また中山泰秀(なかやま やすひで、衆議院議員)は孫である。 1891年(明治24年)1月19日、長崎県長崎市にイギリス人の父と日本人の母の一人娘として生まれる。地元の活水高等女学校を卒業後、アメリカに渡る。アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業。 帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。また、弁護士で後に自由民主党参議院議員となる中山福蔵(なかやま ふくぞう)と結婚し、大阪に住む。 戦後の1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧大阪2区より立候補し当選。以後、当選8回。民主党では、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。 保守合同後は大野伴睦(おおの ばんぼく)→ 船田中(ふなだ なか)派に所属。1953年(昭和28年)に発足した第5次吉田茂(よしだ しげる)内閣で厚生政務次官を務める。1960年(昭和35年)、上記のように厚生大臣として入閣する。 1969年(昭和44年)、四男・正暉に地盤を譲り引退。1976年(昭和51年)10月11日、85歳で死去。 |