令和5年12月27日(水)
白菜を2つ購入しました
「80歳の壁」を読み終えました
テレビアンテナのコードの予定の引き出しが無理であることがわかりました

昨日も朝から太陽が出て、一日中晴れの良い天気でした。
しかし気温は上がらず冬の気温でした。
今年最後の白菜を2つ購入しました。
売り場では多くの人がおりました。
「80歳の壁」を読み終えました。
行間も適度であり私には読みやすい本でした。
読み終えて、私自身すっかり安心をしました。
反省することはもっと他人とコミュニケーションが必要であると思いました。
和室用のテレビアンテナのコードが途中で壁に固定してあり、予定の引き出しが無理であることがわかりました。
最後の手段はありますが、どのようになるかわかりません。
政治資金パーティー透明化「必ずやる」 首相、規正法改正論議に意欲
朝日新聞の記事です。
岸田文雄首相は26日、東京都内で開かれた内外情勢調査会で講演し、自民党派閥の政治資金パーティーをめぐる問題を受けて新設する党の組織で、政治資金規正法の改正を議論の対象とする考えを述べた。一連の問題の対応として、首相が同法改正に取り組む考えを具体的に語ったのは初めて。(以下、省略)
土砂から車を発見、不明男性のナンバーと一致 車内の様子確認できず
朝日新聞の記事です。
奈良県下北山村の国道169号で23日夜に起きた土砂崩れで、地元消防は26日、土砂の中から新たに車1台の一部が見つかったと明らかにした。連絡がとれない和歌山県の男性が乗っていたとみられる車とナンバーは一致しているが、車内の様子は確認できていないという。27日も捜索活動を続ける。(以下、省略)

土砂崩れが発生した崩落現場付近で、捜索する消防隊員ら
=2023年12月26日午後4時59分、奈良県下北山村、朝日新聞社ヘリから、金居達朗撮影
今日は何の日 (出典 雑学ネタ帳)


浅草仲見世記念日(12月27日 記念日)

 1885年(明治18年)のこの日、東京・浅草の「仲見世」が新装開業した。
 浅草仲見世は、雷門から浅草寺へと続く参道の両脇に位置する商店街で、日本で最も古い商店街の一つである。この日、煉瓦(れんが)造りの新店舗が開店した。現在、商店が立ち並ぶ通りは「仲見世通り」と呼ばれ、長さが約250mで、東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗がある。
    
       浅草寺と仲見世
 浅草仲見世について
徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口は増え、浅草寺への参拝客は一層の賑わいを見せた。そんな中、近隣住民に浅草寺境内の掃除を役務として課す見返りに、境内や参道上で店を営業する特権が与えられた。これが仲見世の始まりであり、1685年(貞享2年)頃とされている。
 江戸時代には、伝法院(でんぼういん)から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具や菓子、土産物などを売っており、次第に店も増え、日本で最も形の整った門前町へ発展していった。
 明治維新の政変により、寺社の所領が政府に没収され、浅草寺の境内も東京府の管轄となった。合わせて制定された公園法により境内が公園地に指定され、以前からの特権が仲見世から取り上げられた。
 1885年(明治18年)5月、東京府は仲見世全店の取り払いを命じ、泣く泣く退店した後、同年12月に煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が完成、近代仲見世が誕生した。
    
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災で赤煉瓦の仲見世は倒壊したが、鉄筋コンクリート造りの建物として再建された。
    
        関東大震災直後の仲見世
 1945年(昭和20年)の戦災で内部は全部焼失したが、仲見世の人々の努力によりいち早く復興し、1985年(昭和60年)には近代仲見世の誕生100周年を迎えた。
    
           現在の仲見世
 現在でも、仲見世は正月の初詣を中心として、浅草寺を参拝する多くの人々で賑わう。人形焼や雷おこし、団子といった甘味屋や、扇子や髪飾り、帯を扱う和装屋などがあり、海外からも多くの観光客が訪れている。

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