令和5年07月19日(水)
屋上のキュウリ2本を、処分しました
新設した屋上の南側の側面が補強不足のため異常を見つけましたので、本日対応します

昨日も朝から太陽が出て、猛暑日の一日となりました。
朝方、太陽熱温水器のアルミ板の追加4枚を設置しました。
予想以上に時間がかかりましたが、何とか設置を完了しました。
そのため汗でびっしょりとなり、水シャワーを浴びました。
そのあとまずいと思いつつ缶ビールを飲んでしまいました。
屋上のキュウリ2本が役目を終えたようですので、処分しました。
新設した屋上の南側の側面が補強不足のため異常を見つけましたので、本日対応します。、
電動自転車のバッテリーを何とか活用できないかと検討を始めました。
夕刻は60分間公園のウォーキングで、一日を終えました。
どうなるウクライナ産の穀物 輸出協定めぐるEUの妥協案とジレンマ
朝日新聞の記事です。
黒海を通じたウクライナからの食料輸出協定についてロシアが参加を停止した問題に絡み、17日にあった国連安全保障理事会の公開会合では、米欧からロシアへの批判が相次いだ。
ロシアは国連や西側諸国の責任だと反論。
協定の先行きが見通せない中、トルコとロシアの外相が18日に電話協議をするなど、仲介の動きに注目が集まる。(以下、省略)

仕組みがよくわからないのですが、ロシアが一方的に協定を止めたようです。
ウクライナは穀物が国内であまり困っているようです。

2023年7月17日、黒海に停泊しているウクライナ南部オデーサから穀物を運んできた貨物船を検査する国連職員。国連提供=AP
ビッグモーター、修理1台あたり14万円のノルマ 未達成なら詰問も
朝日新聞の記事です。
中古車販売大手のビッグモーター(東京都港区)による不正な保険金請求は、会社側が過大なノルマを現場に押しつけた末に起きていたことが、同社の特別調査委員会の調べで明らかになった。
車を故意に傷つける、犯罪に近い行為まで指摘されていた。
経営陣の責任が厳しく問われることになりそうだ。(以下、省略)

顧客から無理矢理に修理代として不正に取っていたようです。
これで客離れが起こるのではないでしょうか。
 ローソン、深夜帯もアバター接客活用へ実験開始 人材不足解消も
朝日新聞の記事です。
コンビニ大手ローソンは、「アバター(分身)接客」を活用して深夜帯も含む店舗の省人化を図る実験を8月にも始める。
コロナの5類移行で外食業界などで需要が回復し、人手不足はより深刻になることが見込まれる。
セルフレジ導入も組み合わせ、コスト削減にもつなげる。(以下、省略)

仕組みがわかりませんが、要は身代わりロボットが定員の役割をするという仕組みだと思います。
恐ろしい世の中になります。
 
ローソンでは、遠隔地にいる社員のアバター(分身)が店内の画面を通じて接客し、
レジ操作をサポートしたりおすすめ商品を案内したりする
=2022年11月28日午前11時44分、東京都豊島区北大塚1丁目、末崎毅撮影
今日は何の日 (出典 雑学ネタ帳)


女性大臣の日(7月19日 記念日)
 1960年(昭和35年)のこの日、第1次池田内閣に中山マサ(なかやま まさ、1891〜1976年)が厚生大臣として入閣し、日本初の女性大臣が誕生した。
 第1次池田勇人(いけだ はやと)内閣は第2次岸信介(きし のぶすけ)改造内閣の後を受けて発足した。
 中山マサの入閣を進言したのは後の内閣総理大臣・大平正芳(おおひら まさよし)である。厚生大臣としての在任期間は5ヵ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。
    
        中山マサ

中山マサについて
 中山マサは、元自由民主党衆議院議員で、中山太郎(なかやま たろう、衆議院議員)は長男、中山正暉(なかやま まさあき、衆議院議員)は四男、また中山泰秀(なかやま やすひで、衆議院議員)は孫である。
 1891年(明治24年)1月19日、長崎県長崎市にイギリス人の父と日本人の母の一人娘として生まれる。地元の活水高等女学校を卒業後、アメリカに渡る。アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業。
 帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。また、弁護士で後に自由民主党参議院議員となる中山福蔵(なかやま ふくぞう)と結婚し、大阪に住む。
 戦後の1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧大阪2区より立候補し当選。以後、当選8回。民主党では、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。
 保守合同後は大野伴睦(おおの ばんぼく)→ 船田中(ふなだ なか)派に所属。1953年(昭和28年)に発足した第5次吉田茂(よしだ しげる)内閣で厚生政務次官を務める。1960年(昭和35年)、上記のように厚生大臣として入閣する。

1969年(昭和44年)、四男・正暉に地盤を譲り引退。1976年(昭和51年)10月11日、85歳で死去。

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