平成22年01月19日(火)
 

小林繁さんの訃報

昨日もよい天気でしたが、やはり冬ですね、外気は少し冷たく感じました。
蝋梅の話題があちこちで聞かれえる時期となりましたが、我が家の庭の蝋梅は未だつぼみのままです。
本日もよい天気が続きそうです。
また、気温が少し上がるであろう、と予報が出ております。

小林繁さんといえば、江川卓投手のプロ入りにからむ「空白の1日」といわれた騒動を思い出します。
マウンドで細い体をしならせ、帽子を飛ばす熱投でファンを魅了した小林繁さんが17日亡くなりました。
サイドスローで、足を上げた後に重心をぐっと低くする独特の投球モーションで女性ファンも多かったようです。
1976、77年は巨人のリーグ連覇に貢献し、エースとして活躍しました。
「空白の1日」といわれる騒動のあおりをうけ、79年から阪神への移籍通告を受け阪神へ移籍しました。
突然の移籍通告にも、小林さんは「阪神に望まれて行くのだから、同情してほしくない。僕の本当の評価は阪神の成績で決まる。だから精いっぱいがんばるのみです」と言い切りました。
そしてその年に巨人に8勝無敗と投げぬき、22勝の成績を残しました。
江川卓氏は17日夜、東京都内の日本テレビで取材に応じた。うっすらと涙を浮かべ、突然の訃報(ふほう)に「残念です」と繰り返した。「空白の1日」を「つい最近のことのように思い出される」と振り返った。

人生には運、不運が付きまといます。
どうしても避けることができない不運もあります。
小林さんは、巨人を追い出された不運をバネにして「巨人戦だけには負けたくない」、という強い根性で対巨人戦で8勝無敗の成績を残しました。
逆境に立った時は、小林さんのこの根性を見習って乗り切りたいものですね。


小林繁さん死去の報を受け、取材に応じる江川卓さん



2007年9月、テレビCMで共演した江川氏と握手する小林繁さん(左)
 空白の一日とは

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

11月20日、江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。その翌日の11月21日午前に、巨人は江川と入団契約を締結。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。

当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。この規定は前日まで交渉を続けた場合には、その交渉地が遠隔地だった場合に、気象の急変などによって球団関係者がドラフト会議に出席できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設けたものだった。また、当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」であり、当時の江川は社会人野球にも行かなかったため、野球協約の文言上では「ドラフト対象外」だった。日本野球機構はドラフト対象の範囲を広げるために、1978年7月31日の改正によってドラフト対象選手を「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正した。しかし、この新協約は「次回ドラフト会議当日から発効する」ことになっていた。

以上のことから、ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅しており、「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11月22日以後であると巨人は解釈し、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川と自由に契約できると主張して入団契約を行った。ドラフト対象選手を在学生野球選手と社会人野球選手に限定すると解釈できる文言になっていたことは野球協約の抜け穴であり、巨人は野球協約の盲点を付いたことになるが、これを認めればドラフトの骨抜きになるため、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効とする裁定を下した。これに対し巨人が反発。その抗議として、翌22日のドラフト会議を欠席(ボイコット)することになる。

なお、江川本人は「空白の一日」を利用した契約の詳細については当日(11月21日)の朝に聞かされたという。実際、当初はアメリカでドラフト会議の結果を待つ予定で、会議終了後にロサンゼルスのリトル・トーキョーにある日本食レストラン「ほり川」で記者会見を行う段取りも組まれていたが、直前になり父親から「とにかく帰って来い」との電話連絡を受け、ドラフト会議前々日に慌てて帰国することとなった。 

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