平成21年07月09日(木)
|
|
咸宜園(かんぎえん)昨日は、一時雨がぱらつきましたが概ね雨の降らない一日でした。
しかし蒸し暑く、少し動くと汗がじわっと出てきて、私にとっては苦手な一日でした。 本日も同じように蒸し暑い一日となりそうです。 ある教育学者の本を読んでいたところ、「咸宜園」というタイトルの文章にあいました。 字の読みが分かりませんでしたが、文章を読んでいくとルビが振ってあり「かんぎえん」と読むことが分かりました。 「咸」はだれでもみんなの意味があり、「宜」はよろしいの意味があるそうです。 すなわち、だれでも自由に入学できる学校(私塾)という意味でした。 インターネットで調べてみましたら、次のようなことが分かりました。 江戸時代の先哲・広瀬淡窓によって、天領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾。 天領でもあることから、武士だけでなく、どんな身分でも、男女を問わず受け入れるということでこう名づけられた。 江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人に及んだ。 塾出身者には、高野長英や大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之などがいる。 四書五経のほかにも、数学や天文学・医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。 毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした。 昭和7年(1932年)には咸宜園跡として国の史跡に指定されており、現在、一般公開がされている。 天領(てんりょう)とは、 江戸幕府の直轄領の俗称。天領とは本来、朝廷(天皇)の直轄領のことを称したが、明治維新の際、旧幕府領の大半が明治政府の直轄県つまり天皇の直轄領になったともみられたことから、さかのぼって幕府直轄領を天領とよぶようになった。正式には御料(御領)、御料所、公領、公儀御料所と称した。天領は、徳川氏の蔵入地(くらいりち)が関ヶ原の戦いを経て1603年(慶長8)の幕府開設後に拡大され、慶長(けいちょう)末年には約230万石に達し、元禄(げんろく)年間(1688〜1704)には約400万石となり、全国68か国のうち47か国内に分布した。 著者は荒廃した現在の学校を考える時、「咸宜園」のような学校の出現を再び願うことは不可能であろうか、と結んでおられます。 入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できたようですが、全寮制で心身とも徹底的に鍛えられたようであり入学後が大変であったようです。 現在、定員割れの大学が多くなってきたように聴きます。 経営者の方は、「咸宜園」に学ばれたらいかがでしょうか。 |