平成21年03月30日(月)
 

神宮外苑(国立競技場)

本日も素晴らしい快晴の朝を迎えましたが、外気は冷たく感じます。
今朝も愛犬(城)を抱いて公園まで連れて行きましたところ、便をしました。
少し元気になったのか、抱こうとすると抵抗をしました。
今朝は食欲もあり見かけは元気なようですが、油断は出来ません。

本日より、NHK朝の連続ドラマ「つばさ」が始まります。
川越市が舞台になりますので、観ようかと思っております。

さて、3月24日(火)に散策をしました、神宮外苑の紹介その2です。

本日は、国立競技場をHPを参考にしながら紹介いたします。

国立競技場の正式名称は、国立霞ヶ丘競技場・陸上競技場だそうです。
東京オリンピックの開会式の会場でした。
実は、その少し前に開催されたアジア大会のために建設されたそうです。
私は、5回くらい入場をしたことがあります。
 競技場の正面裏側に当たります  
 近づいて見ますと、画面上部中央に聖火台が見えます  
 正面入り口を望む  
 正面入り口の左側にあります「オリンピック開催」の碑があります  
 上空写真(HPより)  
 それでは、HPより「国立競技場の歴史」を紹介いたします。

○日本で初めての本格的陸上競技場の誕生 
 国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」(以下、神宮競技場)であり、大正13年10月に、日本で初めての、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地であったこの地に建設されました。神宮競技場は、大正8年12月に工事が着工されましたが、その後、物価の高騰や関東大震災の被災者の収容施設になったりで工事が中断され、大正13年3月にやっと工事が再開され、同年10月に完成となりました。
 この神宮競技場は、陸上競技のみならず、サッカー、ラグビーなども行われ、総合競技場として利用されていました。陸上競技では、織田幹雄氏が三段跳で、南部忠平氏が走幅跳で世界記録を樹立するなど、多くの名選手を生み出しています。一方で、第2次世界大戦中に学徒出陣の壮行会が行われたり、敗戦後は連合軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されたりと、暗い時代もありました。

○日本の競技場から国際的な競技場へ 
 敗戦から数年後、日本は、「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出します。そのための国際的なアピールとして、昭和33年、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが、現在の国立競技場です。
 国際大会の舞台となる競技場の建設は、神宮競技場の取り壊しから始まりました。建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生氏。着工は昭和32年1月で、大会を2か月後に控えた昭和33年3月、ついに完成となりました。
 そのアジア大会が成功裡に終了し、東京オリンピックの招致も実現すると、国立競技場は、まさしく日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外にアピールしてゆくこととなります。

○アジアで初のオリンピックの開催 
 東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年3月、競技場の拡張工事が開始されました。主な内容は、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などでした。
 そして、昭和39年10月10日、94か国・5,558名が参加した「第18回オリンピック競技大会・東京大会」の開会式が、改装されたこの競技場で行われました。国立競技場で行われた競技種目は、陸上競技、サッカーの決勝と3位決定戦、馬術の大賞典障害飛越で、10月24日の閉会式まで、アジアで初めての聖火は燃え続けました。 

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