平成21年03月04日(水)
 

新宿百人町

昨夜は、予想通り夕刻より雨が降り途中から雪になったっようです。
夜中の途中から雨になり雪が融けたため、朝方は雪のかけらも見られませんでした。
お陰で助かりました。


東京都新宿区のJR山手線新大久保駅周辺に、「新宿百人町」という町名があります。
なぜ「百人町」なのでしょう。
実はこの町名こそが江戸時代を通じて活躍した、いわゆる「忍者」たちの足跡なのです。
本日は、この忍者の足跡が残る「新宿百人町」を考えてみたいと思います。

実は先日(2月1日)出かけた所が、この新宿百人町だったのです。
地名の由来を調べると、面白いですね。
用務で伺ったところの1階に、[鉄砲組百人隊」の説明コーナーがありました。
そこにあった印刷物より、「百人町」の概要をまとめて説明をします。
火縄銃について、次のような解説があります。(図1〜図5)
 印刷物の表紙  
 この姿勢で、号令を待つ  
 号令「弾籠め用意」で火蓋を開ける
銃口より強く息を吹き、火蓋を閉じる
 
 左手で銃口を持ち右手で胴乱(どうらん)から火薬入れを出し、筒先より火薬、紙、鉛玉、紙の順に入れ、その都度さく杖で2〜3度突く  
 口火に火薬を詰め、銃を軽く叩き、指で平らにする。
火蓋を閉じ、余分な火薬を吹き飛ばす。
火縄を左手の小指と薬指で持ち、この姿勢で号令を待つ
 
 号令「火縄つけ」で右手で火縄を装着する。
号令「立ち放し狙え」で右頬(ほほ)に銃をつけ、左手で銃の中心を持ち、左足を前に出して立つ。
号令「火蓋切れ」で火蓋をあける。
号令「放て」で右手人差し指にて引金をひく。
 
 鉄砲百人組のなりたち

現在の百人町の町名は、江戸時代、この地に鉄砲百人組という武士たちが住んでいたことから名付けられました。
では、鉄砲百人組とはどのようなものだったのでしょうか。
江戸時代、幕府の下級武士たちは、同じ職務で集団をつくっていました。これを組(くみ)と呼びました。当時、鉄砲を持って戦いに出た集団・鉄砲組の中で、同心(どうしん)と呼ばれる武士たちが100人ずついた組を百人組と言いました。大久保の鉄砲百人組もこれにあたります。
同じ組に属する者はまとまって屋敷を与えられていました。これを組屋敷(くみやしき)とも、大縄屋敷(おおなわやしき)、大縄地(おおなわち)とも言われました。大久保の鉄砲百人組にもこの大縄屋敷が与えられています。
これが現在の百人町1丁目から3 丁目にほぼあたります。
鉄砲百人組には、伊賀組(いがぐみ)、甲賀組(こうがぐみ)、根来組(ねごろぐみ)、二+五騎組(にじゆうごきぐみ)がありました。伊賀組は伊賀(現三重県伊賀)、甲賀組は江州甲賀(現滋賀県甲賀郡)、根来組は紀州根来(現和歌山県那賀郡岩出村根来)の出身者で組織されており、二十五騎組は新たに設置されたと言われています。同心をたばねる与力(よりき)が、他の組が20人いたのに対し25人だったため、二十五騎と呼ばれたそうです。
大久保の鉄砲百人組は伊賀組とも二十五騎組とも呼ばれていました。
大久保の鉄砲百人組が江戸時代のいつごろから現在の百人町に住むようになったのかはっきりしたことはあまりわかっていません。江戸時代に作られた彼らの歴史を記した由緒書(ゆいしょがき)には次のように書かれています。
天正18年(1590)、江戸に入った徳川家康は、家臣の内藤清成(ないとうきよなり)に四谷の地を屋敷として与えました。この屋敷はしだいに小さくなりましたが、現在の新宿御苑にあたります。当時、大久保の鉄砲百人組はこの内藤清成に預けられていて、共に江戸の西側を守っていたと言われています。
慶長7年(1602)、家康が中野に鷹狩りに来たとき、大久保一帯を百人組の屋敷とすることが認められ、その年には与力25人、同心100人があらためて内藤清成の配下となりました(慶長6年[1601]とも言われています)。大久保の鉄砲百人組がこの地に住むようになるきっかけは、このように書かれています。
当時、内藤清成は青山忠成(あおやまただなり)と共に、関東総奉行(かんとうそうぶぎよう)と呼ばれる役職にあり、老中(ろうじゆう)と江戸町奉行の役目を併せ持っていたと言われています。このような重要な役職の配下にあった鉄砲百人組は、まだ江戸が落ちついていない頃、江戸の西側を守るために設置されていたと考えられています。
注:てっぽうは鉄炮とも書きますがパンフレットでは常用漢字表記の鉄砲で統一しました。

鉄砲百人組のくらし

大久保の鉄砲百人組のくらしはどのようなものだったのでしょうか。
彼らには次のような屋敷地を与えられていました。
同心100人の屋敷15万2千574坪(約50万u)、支配与力4人の屋敷7千492坪(約2万5千m2)、支配与力4人の秣場(まぐさば・馬の飼料となる草を採る場所)4千270坪(約1万4千u)、その当時百人組の組頭(くみがしら)だった久世三四郎の抱屋敷(かかえやしき・自分で所有する屋敷地)1万3千坪(約4万3千、)、大砲の射撃訓練場所である大筒角場(おおづつかくば)8千164坪(約2万7千u)、長光寺1千500坪(約5千)、百人組の鉄砲練習場である組鉄砲角場(くみてっぽうかくば)6千560坪(約2万2千u)、以上です。
屋敷地には三本の道が造られ、南町、仲町、北町に分けられ、町の入ロには木戸が設けられました。ひとり分の屋敷は間口(まぐち)が狭く、奥行きが広いものでした。住居の裏は自分たちで農作業ができるような土地になっていました。
さて、鉄砲百人組の通常の仕事は、江戸城大手三ノ門を守ることでした。また、将軍が上野の寛永寺に参詣するときには、寛永寺の文珠楼(もんじゆろう)で、芝の増上寺に参詣するときには、増上寺の山門前で警備をしました。しかし、この勤務も毎日ではなく、多くは屋敷内でくらすことになりました。彼らの給料は30俵2人扶持(ふち)という、たいへん少ないものだったので、自分たちの屋敷地をみずから耕していました。しかし、江戸時代も中頃になると、しだいに経済的に困るようになり、多くの者は内職をするようになりました。当時、多くの下級武士たちは草花の栽培や、鈴虫・こうろぎの飼育もしていました。大久保の鉄砲百人組の場合、つつじの栽培でたいへん有名になり、つつじを目当てに多くの人々が屋敷を訪れるようになりました
 

現在旧江戸城内(皇居東御苑)に残る江戸時代後期に建てられた百人番所。この建造物は数少ない江戸時代の江戸城内の建物としても貴重な存在です。
これは、昔私が撮った写真です。
 興味・関心のある方は、以下も続けて読んでください。
ホームページより、抜粋しました。

鉄砲組同心として活躍した4組の忍者集団

 百人町の名前の由来は鉄砲組同心の組屋敷があったことに由来しています。鉄砲組同心は通称「百人同心」と呼ばれていたので、この名前が付いたのです。それでは「百人同心」と呼ばれる所以は何なのでしょうか? 江戸時代主な忍者集団として「甲賀組」「伊賀組」「根来組」「二十五騎組」という四つの組がありました。一組に与力30人、同心100人から組織され、これらは江戸城内にある鉄砲組同心百人番所にそれぞれ二十五人ずつ配属させて(25人掛ける4組で百人)百人同心を組織していました。この「百人同心」は平時には江戸城の警備などに従事し、戦時には将軍の隊列を護衛する重要な役目を担っていました。
現在旧江戸城内(皇居東御苑)に残る江戸時代後期に建てられた百人番所。この建造物は数少ない江戸時代の江戸城内の建物としても貴重な存在。

東京の地名から見る百人同心の史跡

 百人同心は「甲賀組」が神宮球場付近、「伊賀組」が大久保、「根来組」が市ヶ谷、「二十五騎組」が内藤新宿付近に屋敷を与えられていました。この名残が現在の東京の地名に見られます。「伊賀組」の名残が新宿区百人町で、地図を見るとこの周辺が不自然に縦割りの道となっていますが、これが「伊賀組」の同心組屋敷の名残です。「根来組」の名残が新宿区市ヶ谷の矢来町に見られます。「根来組」の屋敷が竹矢来で囲まれていたことに因むと言われています。また隣接する「二十騎町」も何らかの関係があると思われます。「甲賀組」の名残は現在見られないが、明治期には青山百人町の町名が存在していました。

甲州街道沿いに固まる鉄砲組同心屋敷


 こうして見てみると鉄砲組同心屋敷が甲州街道に固まっていることが分かります。これは江戸城に変事があり、万が一に将軍が江戸を脱出する際に、甲州街道を利用するために、このような配置になっていたのです。将軍は江戸城半蔵門から抜け出すと鉄砲百人組に守られながら甲州街道をひたすら進み、八王子で八王子千人同心に迎えられ、これに護衛されながら最終目的地の甲府へと向かうのです。この辺の事情に付いては今回の題とは若干異なるので詳細は控えますが、鉄砲百人組の存在意義によって屋敷地の配置が決まっていたのです。こうした江戸時代の名残が今の東京にも多く残されているのです 

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