平成21年03月01日(日)
 

武蔵国分寺跡発掘現場見学会

昨日、「武蔵国分寺跡発掘現場見学会」へ行って来ました。
見学会が始まる頃より太陽が出てきましたが、冷たい風が吹く寒い見学会でした。
午前10時から約2時間行われました。
帰宅後少しばかり疲れを覚えましたので、午後の囲碁会は遠慮しました。
というのもこのようなコンディションの時は、勝とうという気ばかりが強くなり碁が汚くなるからです。

今朝もどんよりと曇っております。
これから所用があって見学会の後、新大久保、新宿へ出かけます。

昨日の見学会について、スナップ写真を交えながら報告をします。
 上部の矢印の部分が自宅です
中央の赤丸の部分が見学場所です
 
 見学場所を拡大したものです
矢印の「講堂」の史跡を見学しました
 
 見学会の看板です  
 約100人が集まりました  
 版築(土や石や瓦のかけらなどを付き固める)のあとが層になっております
この上に石を並べて、さらにその上に礎石を置く
 
 版築の上に小石が並べられている様子  
 小石の上に礎石が置かれている様子
この礎石の上に柱を建てる
 
 礎石がずれて見つかった様子
自然にずれたのか、昔誰かが故意にずらしたのかは不明
 
 地表に現れている礎石  
 地下2mくらいのところで見つかった「輪型土製品」
講堂が廃墟となった後、わざわざ土を掘って埋めたものでその目的は不明である
その部分の版築の層が削られているので、後から掘ったことは事実である
 
 今回の見学会の南側にある「金堂跡」の様子  
 主な調査成果(配布された資料より抜粋)

◇講堂は。創建・再建の2回建てられたと考えられます。再建時には東西に墓壇を 増設し,金堂と同規模の建物へ建て替えられます。
◇創建時は、建物が推定で桁行き五間(約28.8m)、梁行き四間(約16.8m) で、現段階では南北に庇のある二面庇建物と考えられます。基壇規模は東西約3 4.5m、南北が約22.7mで,墓壇縁は河原石を地覆とした瓦積みの外装と 考えられます。瓦積み基壇に使用される瓦は創建期の古い瓦です。建物基礎は建 物範囲全体に掘り込み地業(地固め)が施され、厚さ約0.6m(復元すると約 0.9m)の版築がなされています。
◇再建時は,建物が金堂と同規模の桁行き七間(約36.6m)、梁行き四間(約 16.8m)となります。基壇規模は東西約42.3m、南北が約22.5m  で,南北は創建時の位置を踏襲していると考えられます(このた、,創建時の  南・北面の墓壇外装は取り除かれた可能性があります)。墓壇外装の部材は不明 です。建物基礎は創建期基壇の東西面に東西幅約6、厚さ約1.2m(復元する と約1.5m)の掘り込み地業(地固め)が付け足されます。
◇創建時と再建時との掘り込み地業は、大きく異なります。創建時は掘り込みが浅 く、版築は黒色土と砂礫との互層が主体で、増築時は掘り込みが深く、ローム土 と砂礫との互層が主体です。創建時の版築には遺物は見られず、再建期の版築内 には瓦が見られます。
◇再建時期については,従来は,塔が再建される時期(9世紀中頃)と考えられて きましたが、まだ、結論付けるに至っていません。今後の講堂跡調査や出土遺物 の整理作業、伽藍全体の造営過程を含め、総合的に検討していきます。

武蔵国分寺に関する記事です。
HPよりとりました。

興味のある方は、読んでください。
規模は、全国1だそうです。

武蔵国分寺の創建は、聖武天皇の詔が出されてから、50年ほどでほぼ完成していたようだ。835(承和2)年には七重の塔が落雷によって焼失したが再建され、200年間は維持されていたらしい。そして1023(治安3)年には、創建期の伽藍としては最後の修理の記録が残されており、その後は次第に衰退していったようである。
 その後の記録によれば、1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉に攻め入って鎌倉幕府が倒されたわけだが、その手前になる多摩川の河川敷となる分倍河原において、新田軍と北条泰定軍と合戦により勝敗は決した。この時の戦火で国分寺の伽藍はすべてが焼き尽くされた。

天平13年(741)に聖武天皇の詔により、60余の諸国に鎮護国家を目的として、僧寺(金光明四天王護国之寺と呼ばれ20名の僧侶を置く)と尼寺(法華滅罪之寺と呼ばれ10名の尼僧を置く)の造営が始められました。武蔵国の場合、国府(現府中市)の北の広大な平地と東西に連なる丘、丘の麓には豊かな湧水のあるこの地一帯が適地として選ばれました。
寺地がどの位の広さであったかハッキリした結論は出ていないようですが、現在迄の発掘調査により、寺地を区画すると考えられる溝が何カ所も発見され、東西8町(約900メートル)、南北5町(約550メートル)が創建時の僧尼寺を含めた寺地と推定されているようです。

武蔵国分寺跡では僧寺の寺域(中心伽藍)を囲む一辺約3町半(約360メートル)の溝も調査されていて、諸国の国分寺がおおむね2町四方といわれるのと較べてみると、ここ武蔵国分寺は諸国国分寺中でも有数の規模であったことが判明しました。
武蔵国分寺の僧寺は発掘調査の結果、八脚門の中門を南から入り、本尊を安置する東西36.1メートル、南北16.6メートルの金堂が石積みの基壇の上に建ち、その北側には教典の講義などを行う東西28.1メートル、南北16.3メートルの講堂が建てられていました。この金堂の大きさは全国の国分寺中(東大寺は別)の最大規模であるそうです。
ところで、金堂の東西幅の36.1メートルというのはどの位の大きさなのかと調べたところ、現存する正面7間の建築物は平均して20〜25メートルで、比較的大きい唐招提寺の金堂でも約28メートルであることがわかり、36メートルというのがいかに大きいかが伺われます。ちなみに比叡山延暦寺根本中堂が11間で37.6メートルということです。 

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