平成21年02月25日(水)
 
神田明神

昨日は、午後3時頃より雨となりました。
今朝雨は上がっておりましたが、今は霧雨が降ってきました。
今日一日、すっきりとしない一日になりそうです。
懇親会で一旦増えた体重は、簡単には減りません。
困っております。


さて本日は、神田明神を紹介いたします。
正式名称は、神田神社だそうです。
東京の中心―神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場―、108町会の総氏神様で、「明神さま」の名で親しまれているそうです。

交通
JR
中央線・総武線 御茶ノ水駅(聖橋口)より徒歩5分
京浜東北線・山手線線 秋葉原駅(電気街口)より徒歩7分

地下鉄
東京メトロ丸ノ内線 御茶ノ水駅(聖橋口)より 徒歩5分
東京メトロ千代田線 新御茶ノ水駅(聖橋口)より徒歩5分
東京メトロ銀座線 末広町駅 より徒歩5分
東京メトロ日比谷線 秋葉原駅 より徒歩7分


以下、スナップ写真とHPにより紹介します。
 狛犬

関東大震災後に復興された現社殿とともに建立された、正面を向いている非常に珍しい狛犬。動物彫刻で有名な池田勇八が原型を作成しているので、リアルで精悍な表情をしています。狛犬は、神社の守護役あるいは神さまの使いとして、邪気を払う役割を持っています。
向かって右側に口を開けた「阿(あ)」、左に口を閉じた「吽(うん)」。「あ・うん」は、万物の初めと終りを意味します



 
 だいこく様。

縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。
国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。
昭和51年完成。高さ6,6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像として建立された。
 
 えびす様尊像

神田明神境内に新たに建立された鳳凰殿のとなりに、当社二の宮のご祭神『えびす様』のご尊像が建立されました。えびす様は正式のお名前を少彦名命(すくなひこなのみこと)と申しあげ、神話に木の実を舟にして海の彼方にある常世から来訪された小さな神様と伝えられています。また『だいこく様』と力を合わせ日本の国作りを行われ、病人に医薬の道を教え、酒造りなど豊かな知恵を人々に授けられた福の神でもあります。
今回建立されたご尊像は、海の仲間(イルカやタイやトビウオ)に守られて大海原を渡られる『えびす様』のお姿が造形されています。
東京芸術大学学長・宮田亮平教授によって、鍛金工芸の優れた技術で美しく完成いたしました
 
 神田明神の歴史
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。
戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。
すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。
これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。
以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。
明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。

大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。

昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。
当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。
戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。
さらに「平成の御造替事業」が行なわれ、社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。
平成17年、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められております。

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