平成20年12月20日(土)
 

東山道武蔵路

今朝も素晴らしい天気となりました。

本日は、東山道武蔵道(とうさんどう むさしのみち)について紹介します。
なんとこの道が我が家の庭を横断して、府中に通じているのです。
昔の人が、我が家の庭を歩いていたことになります。

詳しくは、下のURLで確認ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/touzando-m/tm-flm10.html

以下、ホームページを引用しながら、紹介します。

古代の地理的行政区分として、畿内五国に、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の五畿七道がありました。

また七道は地域呼称であると同時に、都から地方にのびる道路の名称でもあったのです。
このような行政区は天武朝(672〜686)頃に成立したと考えられているようで、当時の都は飛鳥浄御原宮です。
それに先だった斉明朝から天智朝にかけて伝馬制や駅制が始まっていて、天智朝には「国」の設定や庚午年籍(初めての全国的な戸籍)の作成など国家としての支配体制が整いつつありました。
東山道は都から東の山間部の行政区とその官道をいいます。
平安時代の『延喜式』によると、東山道に属する国は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国ですが、それ以前には幾多の変遷があったと思われています。

武蔵国は『延喜式』では東海道に属していますが、奈良時代の宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えされたことが、『続日本紀』の記事で確認させています。
武蔵国が奈良時代の末期以前には東山道に属していたことから、武蔵国は東山道経由で都と繋がれていたわけなのです。
その時代の官道(駅路)が東山道の本路からどのような経路で武蔵国府へ繋いでいたかが、これまで論議されてきました。
この東山道時代の武蔵国の駅路を当時はどのように呼ばれていたかはわかりませんが、現在では「東山道武蔵路」と一般的に呼ばれています。
 東山道武蔵路の説明図  
 史跡調査中の写真です。  
 現在の東山道武蔵路です。史跡調査の後埋め戻して歩道になっております。  
 道路の中央にある桜の木です。春には、見事な花を咲かせます。  
 道の両端に溝がありますが、その溝に当たる部分が黄色で舗装されております。  
 道路の途中にある碑です  
 道路の突き当たりに史跡調査当時の跡がそのまま残されているところです
この向こうは、JR中央線です
 
 その一部です  

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