日本三大

 47 維新の三傑

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西郷隆盛(さいごう たかもり、本名: 隆永(たかなが)
人物
西郷吉兵衛隆盛の長子。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った、本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。


西郷隆盛
木戸孝允(きど たかよし)(桂小五郎)
略歴
吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、帰藩後は藩庁政務座の最高責任者として活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。
維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼された。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)。
木戸は開明的であったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治維新政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほどに明治政府と西郷隆盛軍双方の行く末を案じながら息を引き取った。


木戸孝允
大久保利通(おおくぼとしみち)
生涯
出生・幼少期
文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住する。親友の西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学ぶ。
15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。
幕末]
弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると、嘉永6年(1853年)に藩記録所御蔵役として復職する。安政4年(1857年)には徒目付になる。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。万延元年(1860年)3月11日に久光と初めて面会する。文久元年(1861年)に御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる[1]。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。文久2年(1862年)に御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉、中山中左衛門、伊地知貞馨と並んで久光側近となる。文久3年(1863年)には、御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進する[2]。
慶応元年(1865年)、利通と改名する。
文久2年には、久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと共に公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷や小松と共に政治の中枢として活動する。慶応2年(1866年)には、第二次長州征伐に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年(1867年)に、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって分解させられたため、今までの公武合体路線を変えて、倒幕路線を指向することになる。公議政体派の土佐藩との間で薩土盟約を結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。その土佐藩の建白により江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、王政復古のクーデターを計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。
明治維新後
慶応4年(1868年)1月23日に、太政官にて大阪遷都論を主張する。明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて失脚させた。
初代内務卿就任〜暗殺
明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを引継いで実施した。そして、「富国」をスローガンとして殖産興業政策を推進した。明治7年(1874年)2月に、佐賀の乱が起こった際には、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。また台湾出兵が行われると、9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として清に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。
また、大久保はドイツ(プロイセン)を目標とした国家を目指していたといわれるが、実際はイギリスを目標とした立憲君主制の国家を構想していたという。明治6年頃から明治11年の大久保存命中まで、大久保を中心とした政権であったため、一般に「大久保政権」と言われている。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。しかし、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園にある。


大久保利通

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