日本三大

 45 三大そば

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戸隠そば(長野県)、
歴史と由来
山岳信仰の栄えた戸隠には、古くから修験者が多く集まってきた。彼らの携行食料として、そばが戸隠にはいってきたと伝えられている。当時のそばは、現在のそばきりではなく、そばがき(蕎麦がき)やそば餅のような形態であったと考えられている。
戸隠そばの特徴
挽きぐるみ(ソバの甘皮を取らずに挽く)の蕎麦粉を使用すること。中には玄そばまで挽き込むこともある。
延すとき、四つ出し(四角く伸ばす)をせず、丸延しすること。
麺棒は一本のみ。
水を殆ど切らずに出すこと。
「ぼっち盛り」と呼ばれる独特の盛り付けをすること。「ぼっち盛り」とは、一つのざるに5ないしは6束、開口部のつぶれた馬蹄形状に盛る形式をいう。ぼっち(束)の数は戸隠内の地域で変わる。
根曲り竹で編まれた円形のざるに盛ること。
「ざる」であっても海苔がかけられないこと。
薬味には、今は「信州の伝統野菜」に認定されている地元の「戸隠大根」と呼ばれる辛味大根を使うこと。
蕎麦が出てくるまでの間に大抵は自家製の漬物などが供されること。
天ぷらにはワラビやコゴミといった地元で獲れる山菜類がふんだんに使われること。
といったものが挙げられる。
戸隠では、各家庭に蕎麦打ち職人がいると言われるくらい生活に密着している。


戸隠そば博物館とんくるりん
出雲そば(島根県)
出雲そば(いずもそば)は、島根県の出雲地方で広く食べられる郷土料理の蕎麦(割子そば・釜揚げそば等)の産地名を使った総称で三大そばの一つ。
概説
出雲地方では奥の院詣り(出雲大社、日御碕神社、美保神社、大山寺、一畑寺)の際に、門前のそば屋で蕎麦を食べるのが庶民の楽しみであった。また「神在月(かみありづき)」に行われる「神在祭」(通称「お忌みさん」)の際、神社の周りに屋台のそば屋が立ち並び、身体の温まる「釜揚げ」(後述)で新蕎麦を食べた。「釜揚げそば」は、出雲を去る神々を見送る儀式「神去出祭(からさでさい)」にちなんで、「神去出そば」また「お忌みそば」と呼称されることもある。
松平治郷はこの地域の産業・文化を振興した名藩主として「不昧公(ふまいこう)」と呼ばれ親しまれているが、当時「高貴な人はそばを食べない」とされていたにも拘らず、不昧公はお忍びで夜に屋台の蕎麦(いわゆる夜鷹そば)を食べに行くほどの蕎麦好きでこだわりの食べ方を語っており、茶人としても茶懐石に蕎麦を取り入れその地位向上に一役買っている


出雲割子そば
わんこそば(岩手県)
歴史と由来
わんこそばの「わんこ」とは、岩手の方言でお椀を意味する。わんこそばの歴史にはいくつか説がある。
かつて、この地方の地主が祭事などの際に、100人以上の大勢の村人や客人に蕎麦を振舞うという風習があった。しかし、通常の作り方だと釜が小さく全ての人に蕎麦が行渡る前にのびてしまう為、通常の分量の蕎麦を小分けして振舞うと都合の良い事から、それがそのまま定着したとされる説。
南部家27代目当主、南部利直が江戸に向かう際に花巻市鍛治町の宿に立ち寄り食事を所望したところ、家人が恐る恐る出した物は椀に盛られた一口大の蕎麦であった。家人は殿様に味の良くない物を出しては失礼と思い、まず一口だけの蕎麦を試しに出したのであったが、利直はこれを「美味い」と何度もお代わりをし、それがそのまま定着しわんこそばと名がついた、とする説。
他にも諸説あるが、現在ではこの二つが主流である。ただし、「わんこ」という言葉が戦後に生まれた事を理由に後者の説が否定される事がある。
1957年12月、花巻市で「わんこ相撲冬場所」が開催され、全国から参加者が集まり何杯食べられるかの競争が行われた。これがきっかけとなり、主として旅行者相手のパフォーマンスとしてわんこそばの食べ方が定着した。ちなみに、花巻在住の宮沢賢治の作品に「わんこそば」は全くといっていいほど登場してこない。彼の好物はてんぷらそばであった。
現在のわんこそば
盛岡駅前「東家」のわんこそば現在のわんこそばは当時のスタイルと然程変わりは無く、始めに用意された専用の椀に盛られた蕎麦を食べ終わるや否や、給仕の威勢の良い掛け声(店によって掛け声は変わる)と共に一口大の蕎麦が椀に放り込まれ、客が降参するまでそれが延々と続く。
一部の店舗では店に入ると大部屋に案内され、そこで他の客が集まるまでしばらく待たされる。これは、昔ながらの大勢で食べるスタイルを重視しているためである。
薬味なども用意されており、鮪のヅケ、イクラ、とろろなど多彩である。


盛岡駅前「東家」のわんこそば

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