日本三大

 44 三八幡

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宇佐八幡宮(うさじんぐう)(大分県宇佐市)
宇佐神宮は、大分県宇佐市にある神社である。全国四万四千社と称する八幡宮の総本社である。式内社、旧官幣大社。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。
祭神等
主祭神は八幡三神と呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一の御殿)、比売大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、神功皇后(三の御殿)の三柱の神が上宮・下宮に祭られている(メインは上宮だが、上宮・下宮どちらも三柱全てを祀っている)。比売大神は宗像三神のこととされる。
このほか、境内には仁徳天皇以下五柱の通称「若宮五神」を祭る若宮神社、応神天皇の子神を祭る春宮神社、大山積尊を祭る亀山神社(亀山は当宮が位置する山の名前)、境内の菱形池を守る水分(みくまり)神社、菅原道真を祭る天満神社、素戔嗚尊を祭る八坂神社、武内宿禰を祭る黒男神社、和気清麻呂を祭る護皇神社、初代大宮司・大神比義を祭る大神祖神社、かつて東征中の神武天皇をこの地でもてなしたとされる菟沙津彦・菟沙津姫を祭る宇佐祖神社などが末社として敷地内に存在する。
また、敷地外にある外宮として、大許(おおもと)神社が近隣の御許山(おもとさん)の上にある。御許山は、比売大神が地上に下った時、最初に降り立った地とされている。
なお、古くは弥勒寺という神宮寺(正確には石清水八幡宮に属する)があったが、廃仏毀釈により取り壊され、礎石のみが残っている。かつて同寺があった場所の北側には、社務所に相当する「神宮庁」と神宝を収める宝物館が存在する。
由来と歴史
社伝等によれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)と言われている。
そして遅くとも社殿を新たに建て替えたと考えられている和銅元年(708年)頃までには大神比義と関係がある大神一族が大和朝廷より宇佐の地にやってきて、あるいは大和朝廷と手を結んで、神仏習合、八幡神創出を行ったと考えられている。
また、宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現として祀る御許山山頂の奥宮・大元(おおもと)(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。
そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、後に宇佐辛嶋郷に住んで、辛嶋郷周辺に稲積六(いなずみろく)神社(単に稲積神社とも表記。宇佐市中561)、乙刀iおとめ)神社(宇佐市下乙女宮本1343)、さらに酒井泉神社(宇佐市辛島泉1)、郡瀬(ごうぜ)神社(昔の表記は瀬社(せしゃ)。宇佐市樋田字瀬社187-1)と社殿を建築した。
崇峻天皇(588 - 592年)の御代に鷹居社(たかいしゃ)(宇佐市上田字1435)が建てられ、和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄える[1]。宇佐にある葛原古墳は辛島勝氏の墓である、という説がある。
社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)、一之殿を建立、天平元年(729年)には二之殿、弘仁14年(823年)には三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成したと言い伝えられている。
東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて都にのぼり、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、宇佐神宮は伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した。
宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の大神氏が務めた。後に菟沙津彦らの子孫・宇佐氏と大神氏の祝が大宮司職を継承し宮成氏と三氏で祭祀を行ってきた。現在では祝氏、宇佐氏、宮成氏は祭祀を離れ、終戦直後には宇佐氏の流れと云われる阿蘇神社宮司の到津(いとうづ)氏が継承し、祭祀を行っていたが、平成16年(2004年)ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。
平成18年(2006年)には代々宮司家に替わって、中津市薦神社宮司である池永公比古氏が79代宇佐神宮宮司に就任した。これは異例のことであり、到津克子(いとうづよしこ)禰宜への橋渡しととらえるむきもあった。ところが、池永宮司が平成20年に急死したため、平成21年に神社本庁は大分県神社庁長の穴井伸久氏を80代宮司に選出した[2]が、これに反対して、宇佐神宮の責任役員会と氏子総代会は到津克子氏の80代宮司就任を決め、神社本庁からの離脱届を出す騒ぎになった。
宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮。現在の金富神社。矢幡氏が社家として代々宮司を務める。)であるとする説がある。 また、宇佐神宮にある由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」には筑前国穂波郡の大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎宮の元宮であると明記されている。


宇佐神宮 西大門(県指定有形文化財)
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)(京都府八幡市)
石清水八幡宮は京都府八幡市の男山山頂にある神社である。宇佐神宮などとともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。二十二社の上七社の一つであり、旧社格は官幣大社。本殿などの建造物16棟等が国の重要文化財に指定されている。 また、本社は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている。
祭神
以下の三神を祀り、「八幡大神」と総称する。
中御前 - 誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)
西御前 - 比淘蜷_(ひめおおかみ・宗像三女神)
東御前 - 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
歴史
清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859年)の夏、空海(弘法大師)の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の860年、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現在は石清水八幡宮の摂社)に由来する。
以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。
また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など、多くの清和源氏が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。
当社の御神前で7歳の春に元服して「八幡太郎」と称した源義家の父の源頼義が、河内源氏の氏神とした壺井八幡宮は、石清水八幡宮を源氏の本拠地の河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したもの。また鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮を勧請した鶴岡若宮にあり、源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し改めて石清水八幡宮を勧請したことを創始とする。
創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、東寺(教王護国寺)や清水寺、比叡山延暦寺、仁和寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、相国寺、大安寺など、多くの寺院との歴史的関連が深い。また、河内源氏と競合相手と考えられている伊勢平氏もこの社を重んじており、平正盛が造営の功を上げたことや平清盛ら伊勢平氏の主だった人々が八幡宮の臨時祭で舞人を演じたとする記録が残されている。
明治時代(1868年)の神仏分離までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、寛永の三筆として知られる松花堂昭乗も八幡大菩薩に仕える社僧の一人であった。
1868年(明治元年)、仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の放生会は仲秋祭に改めさせられた。
1871年、官幣大社に列するとともに、社号を「男山八幡宮」に改名されるが、1918年には石清水八幡宮に復する。
また現代では、パナソニックの創業者でもあり「経営の神様」とも称された松下幸之助が深く信仰したほか、厄除開運、必勝、商売繁盛、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。
境内には、国の重要文化財に指定されている社殿をはじめ、楠木正成手植えの大楠(京都府指定天然記念物)や、織田信長奉納の「黄金の樋」「信長塀」などがある。


石清水八幡宮  本殿
筥崎宮(はこざきぐう)(福岡市東区)
筥崎宮は、福岡県福岡市東区箱崎にある神社。筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。
応神天皇を主祭神とし、神功皇后と玉依姫命を配祀する。大分県宇佐市の宇佐神宮、京都府八幡市の石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つとされる。博多区住吉の住吉神社とともに筑前国一宮とされる。「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり「箱」ではない。ただし同宮が在する地名・駅名などは筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して恐れ多いという理由から「箱崎」と表記する。
立地
博多湾から本殿まで長大な参道が続く。参道の手前の箱崎浜一体は、以前は白砂青松と謳われた美しい海岸線を誇っていたが、博多港修築により1936年には護岸整備され、現在では北側に箱崎埠頭、南側に東浜埠頭と博多港の倉庫等施設が並び姿を一変させて今は見る影もない。参道の先の海岸は清めの真砂(まさご)を貰い受ける「お汐井とり」が行なえるよう砂地が整備されている。また箱崎浜は箱崎漁港と隣接する。
歴史
延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。延長元年(923年)に現在地に遷座。延喜式神名帳には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。
元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。


筥崎宮

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