日本三大

 43 三大鳥居

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大神神社(おおみわじんじゃ)大鳥居(奈良県桜井市)(高さ約32m)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。
三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものであるが、日本唯一のものではなく、他にも三ツ鳥居は存在する。
歴史
崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。
国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。延喜式神名帳では名神大社に列し、摂末社の多くも記載されている。
摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっている。
また、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌に「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」との言葉がある。伊勢神宮との関係を示唆している。


三輪山と大鳥居
厳島神社(いつくしまじんじゃ)鳥居(広島県廿日市市宮島町)(高さ16.8m)
概要
1400年の歴史をもち、日本全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本三弁天の一つとされている。
厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、日本三景の一つとなっている。平家納経で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。鳥居の高さは、16メートル。
歴史
厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。文献での初出は弘仁2年(811年)で、延喜式神名帳では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。
平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3年(1168年)ごろに平清盛が現在の社殿を造営した。平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。平家の守り神であった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行っている。豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参り、大経堂を建立している。
明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。


厳島神社の鳥居
気比神宮(けひじんぐう)(福井県敦賀市曙町)鳥居(10.93m)
古くは「けひ」を「気比」・「笥飯」と書いたり、社号を「社」・「宮」・「神社」・「(大)神宮」と称したりと様々であったが、明治28年(1895年)の神宮号宣下により「氣比神宮」に改称して現在に至る。現地では「けえさん」と親しみをこめて呼ばれている。
歴史
当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。
持統天皇6年(692年)封戸20戸が増納され(『日本書紀』)、天平2年(730年)には封戸200戸が充てられ、その後天平神護元年(765年)更に44戸が追進された(以上『新抄格勅符抄』)ほか、宝亀元年(770年)を初見(『続日本紀』)として奉幣もたびたび行われるなど朝廷から厚遇され、延喜の制で7座全てが名神大社に列した。また『気比宮社記』によれば、大宝2年(702年)に初めて文武天皇の命で社殿が修造されて以来、社殿造営は勅命によるものとされ、遷宮にあたって勅使が差遣される例であったが、弘仁元年(810年)を最後に勅による造営は絶えたという。更に霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂が夢告によって気比神宮寺を建立して、早くから神仏習合が行われていた1例を示すが(『武智麻呂伝』)、これは中世に廃絶したらしく現在はその旧跡も不明である。
以後も寛仁元年(1017年)に後一条天皇が一代一度の大奉幣使を差遣して神宝を献じるなど朝廷の崇敬は変わらず、また封戸を荘園化して敦賀を中心に一部は佐渡・越後にも及ぶ20所以上の神領を有する北陸屈指の大社であったことから、中世を通じて一般に北陸道総鎮守・越前国一宮と仰がれて隆盛し、南北朝時代には南朝方に与したため神領地を滅じたが、なお24万石を所領していた。戦国時代に大宮司気比憲直(けひのりなお)が越前朝倉氏についたため、元亀元年(1570年)、織田信長の越前攻略により、社殿焼失、社領没収、社家、社僧の離散等社勢は衰退したが、江戸時代に福井藩祖の結城秀康によって再興されるとともに社領100石を寄進されて以来、福井藩や小浜藩の保護を受けた。


氣比神宮 中鳥居、拝殿

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