日本三大

 42 三大民謡

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花笠踊り(はながさまつり)(山形県)
花笠まつりは、スゲ笠に赤い花飾りをつけた花笠を手にし、「花笠音頭」にあわせて街を踊り練りあるく祭である。山形県内など数か所で開催されているが、例年8月に山形市で行なわれる「山形花笠まつり」が広く知られている。
起源
花笠まつりで歌われる「花笠音頭」の起源は諸説あるが、大正中期に尾花沢で土木作業時の調子あわせに歌われた土突き歌が起源といわれており、昭和初期にこれが民謡化され「花笠音頭」(またの名を「花笠踊り唄」といわれる)となった。
また踊りについては、菅で編んだ笠に赤く染めた紙で花飾りをつけたものを景気づけに振ったり回したりしたのが発祥といわれている。
踊りの種類
花笠まつりの振り付けは、山形県内各地域別に約10種類存在していた。
1963年(昭和38年)、それらの振り付けが一本化され「正調花笠踊り〜薫風最上川〜」が制定された。以降、これが標準的な振り付けとされたが、紅花摘みの作業唄からとったとされる、その楚々とした踊りの動作のため、主に女性が踊り手の中心となった。
1999年(平成11年)、「正調花笠踊り〜蔵王山暁光〜」が、「薫風最上川」に並ぶ標準振り付けとして制定された。豪快な動作を取り込んでいるところが特徴であり、これにより男性の踊り手の増加に寄与したと言われる。
また、「おばなざわ花笠まつり」で踊られているいわゆる「笠回し」で参加する団体も多い。笠回しには5つの流派がある。


花笠音頭
郡上おどり(ぐじょうおどり)(岐阜県郡上市)
郡上おどりとは岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。
歴史・ 発祥
中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦ため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
江戸時代中期
享保13年(1728年)から17年間飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した「濃州志」の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して『本土ノ民家於イテ籾オヒク?也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)』と記している。
これは飛騨の地で八幡の事を歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。
尚、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。
天保11年(1840年)に書かれた郷中盛衰記によると『享年時代(1744〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った』と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていた様である。
1820年
郡上藩庁より触書「城番年中行事」で『盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと。』と言う意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。
これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。
江戸時代後期
江戸時代後期において城下の盆踊りは、七大縁日が定められて行われていた。七大縁日とは7月16日の天王祭り(八坂神社)・8月1日の三十番神祭(大乗寺)・8月7日の弁天七夕祭り(洞泉寺)・8月14日〜16日の盂蘭盆会・8月24日の枡形地蔵祭り(枡形町)である。
踊りの概要 [編集]
郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り時計回りに周回しながら踊る。会場が街路の場合もあるので、輪は円形とは限らない。踊りには曲ごとに定型がある。振り付けの基本は簡素なので、初心者や観光客でも見様見真似で踊ることができるようになる。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。踊りへの参加は完全に自由で、飛び入りや離脱に規制はない。通常、見物人よりも踊り手の方が圧倒的に多数である。


屋形の周りで踊る郡上踊り
阿波踊り(あわおどり)(徳島県)
阿波踊りとは、約400年の歴史があり、徳島県(旧・阿波国)内各地の市町村で開催される盆踊りである。なかでも徳島市の阿波踊りが県内最大規模で最も有名であり四国三大祭り、日本三大盆踊りの1つに数えられる。また日本三大阿波踊りとして徳島、高円寺、南越谷の各阿波踊りが挙げられる。
概要
三味線、太鼓、鉦(かね)、横笛などの2拍子の伴奏にのって踊り手の集団(「連」)が踊り歩く。女性は優雅に、男性は腰を落として豪快に踊る。
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」と唄われるよしこので知られる。しかし、よしこのは大手の有名連以外はあまり使われず主に「ヤットサーヤットサー」という掛け声のほうが多用されている。全国的には「えらいやっちゃ」が有名なため、「ヤットサー」の知名度はあまり高くない。企業連などではこのほか商品名や会社名が入った独自のかけ声が使われたり、「1かけ2かけ3かけて、しかけた踊りはやめられぬ。5かけ6かけ7かけて、やっぱり踊りはやめられない」と言ったものも使われている。また、「ワッショイ踊り」(後述)のような邪道踊りでは「ソレソレソレ…」等と言った単にやかましいだけやバカ騒ぎをするためだけのものも存在している。
近年は徳島以外でも各地(特に関東地方)で夏のイベントとして阿波踊りが催されており、徳島の阿波踊り連がその指導に当たっている。有名なものとして、高円寺(東京都杉並区)の商店街の青年部が町おこしとして、隣町の阿佐ヶ谷七夕祭りに対抗して、夏のイベント用に阿波踊りの様なものを導入しやがて都内在住の徳島県出身者から指導を受ける形で発展した「東京高円寺阿波おどり」がある。例年120万人程度の人手があり、ほぼ同時期に行われる浅草サンバカーニバルと共に、東京の代表的な夏祭りの1つである。現在は、商店街の手を離れてNPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会が主催している。
高円寺ほどの規模ではないが、毎年60万人程度の人手がある埼玉県の南越谷阿波踊りも有名である。前述のとおり、旅行誌やマスコミでは「徳島」「高円寺」「南越谷」を「日本三大阿波踊り」と呼んでいる。
この他、神奈川県大和市や相模原市東林間の阿波踊り等、全国各地で有名な阿波踊りがある。全国各地で行われている阿波踊りについては後述を参照。
また徳島県内の学校では体育祭や運動会などで「阿波踊り」を演目として採用している学校も多数あり、授業で阿波踊りを経験した地元住民も多数いる。地域住民の代表的な祭りである。
起源と名称
精霊踊りや念仏踊りが原形であるといわれるが、起源は明らかになっていない。徳島藩が成立して以後、盛んに踊られるようになったとされる(徳島市観光協会の説明より)。徳島城が竣工した際、当時の阿波守・蜂須賀家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥という説もある。江戸時代には、一揆につながるとの理由で阿波踊りが禁止されていた時期もあった。その令を犯し、自宅で阿波踊りを行った家老がお家断絶になったという。また戦時中にも一時阿波踊りは禁止された。
阿波踊りという名称は徳島県内の各地で行われてきた盂蘭盆の踊りの通称であり、昭和初期からそう呼ばれるようになった。尚、徳島市や高円寺の阿波踊りではポスターや看板等において専ら「阿波おどり」と表記される。
なお名称から徳島県阿波市が阿波踊りの本場と思われることがあるが、阿波市でも阿波踊りは行われるものの特別なことは特にない。


徳島市の阿波踊り

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