日本三大

 40 国鉄三大ミステリー事件

出展:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下山事件(しもやまじけん)
下山事件とは、連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件とよばれる。
事件概要
1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、東京駅前に戻って千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。
普段、下山は午前9時前には国鉄本庁に出勤し、毎朝秘書が玄関に出迎えていた。失踪当日は、国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌7月6日午前0時30分過ぎに国鉄常磐線・北千住駅〜綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。


下山総裁の遺体搬出
三鷹事件(みたかじけん)
三鷹事件三鷹事件は、1949年7月15日に日本・東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件である。
事件概要
米軍を中心とした連合国軍による占領下の1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分(当時はサマータイムのため現在の午後8時23分)に、国鉄三鷹車庫から7両編成の無人電車が暴走。そのまま三鷹駅の下り1番線に進入したのち時速60キロ程のスピードで車止めに激突。そのまま車止めを突き破り脱線転覆した。
これにより脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで一般人6名が電車(国鉄63系電車)の下敷となり即死。また負傷者も20名出る大惨事となった。


三鷹事件
松川事件(まつかわじけん)
松川事件とは、1949年(昭和24年)に福島県の国鉄東北本線松川駅 - 金谷川駅間で起きた鉄道のレール外しによる意図的な列車往来妨害事件。
事件概要
三鷹事件から1ヶ月後の1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分(当時はアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍による占領中でサマータイムが導入されており、それを考慮しない場合午前2時9分)頃、福島県信夫郡松川町(現在の福島市)を通過中だった青森発上野行き上り列車(C51形蒸気機関車牽引)が、突如脱線転覆する事件が起こった。
蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。機関車の乗務員3人(49歳の機関士・27歳の機関助士・23歳の機関助士)が死亡した。現場は、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点であった。


松川事件

日本三大の目次へ

トップページへ