日本三大

 38 三関

三関とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国)、鈴鹿関(伊勢国)、愛発関(越前国)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂の関(近江国)が愛発関に代わった。

出展: 日本大百科全書(小学館)その他でまとめました
鈴鹿関(すずかのせき)(東海道)
伊勢(いせ)国(三重県亀山市関町付近)に置かれた古代の関所。美濃(みの)国(岐阜県)不破(ふわ)関、越前(えちぜん)国(福井県)愛発(あらち)関とともに三関(さんかん)の一つ。646年(大化2)の大化改新の詔(みことのり)に「関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)を置け」とあるのによって置かれたものであろう。672年(天武天皇1)鈴鹿関司の使が奏言したことがある。709年(和銅2)藤原房前(ふささき)が東海、東山両道の関所を検察したとき、伊勢守(かみ)が賞揚されている。元明(げんめい)天皇の崩御をはじめ、国家の大事には固関使(こげんし)が派遣された。789年(延暦8)7月、三関は廃止されたが、固関使の派遣は儀礼的に行われた。鎌倉時代にも関所が置かれていたことは『吾妻鏡(あづまかがみ)』などによって知られる。江戸時代は東海道五十三次の一宿であった。
不破関(ふわのせき)(東山道)
美濃(みの)国(岐阜県不破郡関ヶ原町)に置かれた古代の関所。伊勢(いせ)国(三重県)鈴鹿(すずか)関、越前(えちぜん)国(福井県)愛発(あらち)関とともに三関(さんかん)の一つ。646年(大化2)の大化改新の詔(みことのり)に「関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)を置け」とあるのに基づいて設けられたものと思われる。壬申(じんしん)の乱(672)のときには大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が本営を置いたが、関所は設けられていなかった。708年(和銅1)には三関国守のことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』にみえるから、このときまでには置かれていたことがわかる。709年藤原房前(ふささき)が東海、東山両道の関(かんさん)(関所、とりで)検察のとき、美濃守(かみ)が賞揚されている。桓武(かんむ)天皇のとき789年(延暦8)7月、蝦夷(えぞ)征討も進んだため、交通の妨げとなるとして、三関は停廃された。しかし、国家の大事に際し固関使(こげんし)が形式的に派遣された。
愛発関(あらちのせき)(北陸道)
越前(えちぜん)国敦賀(つるが)郡愛発村(福井県敦賀市)にあった古代の関所。伊勢(いせ)国(三重県)鈴鹿(すずか)関、美濃(みの)国(岐阜県)不破(ふわ)関とともに三関(さんかん)の一つ。北陸道に沿い、近江(おうみ)・越前国境の山中にあって軍事的性格の強い関所であった。789年(延暦8)7月、三関は停廃されたが、810年(弘仁1)9月以前、愛発関にかわって逢坂(おうさか)関(滋賀県大津市)が三故関の一つとなる。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、764年(天平宝字8)9月、恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂(なかまろ))が謀反を企て、官印を奪って兵をあげるに及んで、淳仁(じゅんにん)天皇は三関を固めさせた。押勝は、その子越前守(えちぜんのかみ)恵美辛加知(しかち)の挙兵に呼応して近江に走った。しかし押勝は愛発関で物部広成(もののべのひろなり)に阻まれる。再度愛発関を指向したが、佐伯伊多智(さえきのいたち)に阻まれ、琵琶(びわ)湖を船で逃げる途中斬(き)られた。
   逢坂の関(おうさかのせき、あふさかのせき)(畿内)
大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年(895年)12月3日(12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。
逢坂関は鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。しかし、貞治6年(1367年)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、侍所頭人の今川貞世によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・京都市山科区)とともに焼払われた[2]。その後、逢坂関は再設されたが、寛正元年(1460年)に伊勢神宮造替のために大津に新関が設置された際には、大谷・逢坂の両関が一時廃されており[3]、経済上の理由から室町幕府が園城寺の関を支配下に置こうとしたと考えられる。なおその後も逢坂関は存在し、応永25年(1418年)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。 

日本三大の目次へ

トップページへ