日本三大

 34 三大盛り場

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歌舞伎町(東京都新宿区)
歌舞伎町は、明治通り(東)、靖国通り(南)、JR中央線(西)、職安通り(北)に囲まれた範囲(ただし花園神社の敷地とその南北の一画は除く)に位置する町である。鉄道の場合、新宿駅東口、あるいは西武新宿駅が最寄り。都営地下鉄大江戸線なら新宿西口駅か東新宿駅が近い。新宿駅東口から北に向かって行くと、ドン・キホーテ本店前の大きな通り(靖国通り)にぶつかる。これを越えると、歌舞伎町である。歌舞伎町一番街(劇場通り)、さくら通り、西武新宿通り、東通り、区役所通りなどがある。西武新宿駅で降りれば目の前が歌舞伎町になる。
町の中には、映画館、漫画喫茶、居酒屋、キャバクラ、風俗店やホストクラブ、ラブホテル、パチンコ店も立ち並んでおり、「眠らない街」とも言われ、深夜になってもネオンで明るく人通りも多い。ドン・キホーテ前、セントラルロードに多いスカウトやホストによるキャッチ、怪しげな客引きやポン引きなど、合法、非合法取り混ぜて歌舞伎町独特の雰囲気がある。よく東洋一の歓楽街と言われている。


夜の歌舞伎町一番街。この時間がこの街の「本番」



靖国通りから見た夜の歌舞伎町セントラルロード
新京極通(京都市)
錦天満宮新京極通(しんきょうごくどおり)は京都市中京区の南北の通りの一つ。三条通から四条通までの比較的短い通りである。
1872年に京都府参事槇村正直によって作られた比較的新しい通りである。一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりである。明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた。
かつては、京都方面の修学旅行のコースに取り入れられるようになったため、修学旅行の中高生の行き来の絶えない所となり、老舗もあり地元の者も訪れる隣の寺町京極に比べて、新京極は那覇市の国際通りなどと同様の観光客向けの通りとなり、地元の者が利用することはほとんどなかった。しかし近年では、観光客向けの土産物店の他、飲食店、ファッション洋品店が混在し、若年層向けの店舗が目立つようになった。また、松竹座に代表される老舗の映画館が、ようやく、シネコンへの改装を果たし、新しいニーズに合った街へと変貌しつつある。
三条通から四条通までが路上喫煙等禁止区域である。


錦天満宮
千日前(大阪市)
千日前商店街 南側入り口千日前(せんにちまえ)とは、大阪府大阪市中央区の地名の一。道頓堀の南に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。同地区には法善寺と竹林寺がもともとあり、千日念仏を唱えていたことから両寺の別名(特に法善寺)を千日寺といい、その前で栄えた街だからということでこの名になったといわれる。
江戸初期には近郊農村であった難波村の一部であり、1615年市内の墓地の整理により「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地が出来、刑場・焼き場も併設された。これが後にさまざまな噂話や因縁話の原因にされてしまっている。
1912年(明治45年)1月16日、ミナミの大火で千日前から高津、生國魂神社あたりまでが焼失し、この地にあった遊郭は移転して消滅した。焼け跡には現在の千日前通にあたる東西の通りが拡幅されたが、繁華街の復興は困難であり、南海鉄道の社長はミナミ壊滅の危機に近代的なレジャーセンターの建設で復興の呼び水にすることを考え、千日土地建物(千土地。のちの日本ドリーム観光)を設立。大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけた。彼は当時、活動写真館を経営し、役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主でもあった。南海の出資で彼はすべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想した。


千日前商店街 南側入り口

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