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京都の紅葉 (その6)

2010年12月12日

下松から写真が届きました。
常寂光寺、二尊院、宝筐院(ほうきょういん)の写真を送ります。

常寂光寺、二尊院は小倉山の麓にあるために庭園の高手の場所では、低地の宝厳院や二尊院等と比べて冷え込みの時期が相当に早かったようで、既に落 葉して紅葉期を過ぎている場所が多くありました。
そんな中、境内に楓樹が多くある常寂光寺の紅葉が見頃を過ぎていたのが心残りでした。
一方、市街地に位置する宝筐院は、敷き紅葉も鮮やかで見頃でした。

宝筐院の紅葉を観て出発点の渡月橋近くの駐車場に戻り昼食を摂りました。
嵯峨野の紅葉巡りはもっと観たい所が未だあったのですが、許される時間が実質的には2時間位しか無くて、事前に予定していた場所を散策し終えるの が精一杯でした。

長くなりますが参考までに
1,二尊院(パンフレット抜粋)
「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼ぶ。
明治以降、天台宗に属している。
嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師が承和年間(834〜847)に開山したといわれている。
応仁の乱(1467〜1477)により、諸堂が消失したが、本堂、唐門(勅使門)は約三十年後に再建された。
参道は「紅葉の馬場」と云われ秋には紅葉が美しい。
山中の「時雨亭跡」は藤原定家が百人一首を撰定した場所として名高い。
2、宝筐院(パンフレット抜粋)
平安時代に白河天皇(1053〜1129)により建てられ、善人寺と名付けられた。
南北朝時代に夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し衰退していた寺を復興、臨済宗の寺となった。
室町幕府の二代将軍足利義詮は、黙庵に帰依し、善人寺の伽藍整備に力を入れた。
貞治六年(1367)、義詮が没する(三十八才)と、善人寺はその菩提寺となり、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院に因み寺名は宝筐院 と改められた。
応仁の乱以後は次第に衰微し、江戸時代には天竜寺末寺の小院となり、幕末には廃寺となったが、五十数年を経て復興された。
宝筐院の境内に、南朝、北朝と敵味方に分かれて戦った楠木正行と足利義詮の墓が石垣に囲まれた中に並ぶ。
正平三年・貞和四年(1348)正月、河内の国の南朝の武将楠木正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死にし(二十三才)、黙 庵はその首級を生前の交誼により善人寺に葬った。
後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。


常寂光寺の仁王門   
仁王門を潜って小倉山中腹の庭園に   
常寂光寺の庭園 (1)   
 常寂光寺の庭園 (2)  
 常寂光寺の庭園 (3)  
 常寂光寺の庭園 (4)  
常寂光寺の庭園 (5)   
 常寂光寺の庭園 (6)  
 二尊院:「紅葉の馬場」と呼ばれる参道の紅葉  
 二尊院:「紅葉の馬場」と呼ばれる参道の紅葉 (1)  
二尊院:「紅葉の馬場」と呼ばれる参道の紅葉 (2)   
 二尊院:庭園の紅葉  
二尊院:庭園の紅葉 (1)   
 二尊院:「紅葉の馬場」と呼ばれる参道の紅葉 (2)  
 二尊院:「紅葉の馬場」と呼ばれる参道の紅葉 (3)  
 宝筺院:庭園の紅葉  
宝筺院:庭園の紅葉 (1)   
 宝筺院:庭園の紅葉 (2)  
宝筐院:庭園の紅葉 (3)   
 宝筐院:庭園の紅葉 (4)  
宝筐院:庭園の紅葉 (5)   


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