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小五郎山

2010年05月05日

下松から写真が届きました。

ご主人のコメント

昨日、島根県との県境近くにある西中国山地の山・小五郎山(1161.7m)に家内と二人で登って来ました。
今回登ったのは、先日散策した長瀬峡の金山谷から鉱山跡を経て登るルートです。

杉やヒノキの植林地帯の急登を過ぎると、広葉樹林となり新緑の中にミツバツツジも満開でした。
鉱山跡は山頂近くに在り、坑道入口に近づけるのは竪穴式と横穴式の2ケ所です。
地主の山本さんの話では、全部で10ケ所位あると言われており、7ケ所ほどは確認しているとのことでした。

参考までに、坑道入口近くの錦川観光協会の説明板(小五郎山鉱山跡について)から転記しました。
小五郎山は古い露天掘りやタヌキ掘り等がみられ(谷をえぐり取られた跡やここにタヌキ掘りの跡が九つ在りましたが一つを残して、今はつぶれています)、またこの地で鉱石を精錬した跡も見られます。古い書物や神社の起こりを示す記録、そしてこの地に伝わる物語と古老の話から、時代別に考察しますと次のとおりです。
1、最も古い時代の寺床について、「寺床山は大変高い山ですが大昔に精舎の家がありました」と記しています。精舎は仏教語ですが、もとはインドの言葉で、精錬を表すことから、大昔、この山では、修験僧による鉱石採掘精錬が行われていたことを物語っています。
2、河津の「崎所神社縁起」には「炎を巻き上げる馬(精錬所)のうわさを天皇が聞き、召し出せといっても惜しむので、佐伯氏重の子供小五郎は召し捕られ誅(ころ)されました。保元元年(1,156年)の出来事です」とあり、平安時代の鉱山のことでした。その後この山は、いつの間にか宇佐ケ岳から小五郎山と呼ばれるようになりました。
3、向峠剣霊大明神略縁起」に、「讃井左馬助吉兼は弓で、小五郎山に通う長い大蛇を射殺すそのあと(坑道)が今もはっきり分かります。享禄三年(1,531年)のことでした」この延記録から室町時代に採鉱が行われていたことを物語っています。
4、「化け猫物語」「讃井氏は小五郎山の三日間の猟に出かけましたが(精錬の時間)ある晩、使用人に化けた飼い猫が山に登ってき来て、「奥さんが急病です。すぐ御帰りを」と言ってと主人を連れ返す・・・」前項と同時代。
5、大正五年(1,917年)、十七才になった向峠の若者はここから採掘された小石くらいの鉱石を、かますに入れて背負い眼下の金山谷の大屋敷に運びました、そこで精錬された銅は「たかね」と記された鋳型で出来上がったインゴットを、馬で津和野街道を廿日市経由、船で大阪に運びました。

昨日撮った写真を送ります。
   登山口に咲いていたシャクナゲの花  
   登山口に咲いていたシャクナゲの花 (1)  
   登山口に咲いていたシャクナゲの花 (2)  
   山麓の新緑:登山口付近にて。  
   小五郎山への登路:険しい所にはロープ。
 
   登路脇に修験堂があったと伝えられる寺床跡地  
   竪穴式の坑道入口  
   横穴式坑道入口  
   坑道近くの平坦な場所に鉱石が積まれていた。緑青を呈しているものもあった。  
   登路脇のミツバツツジが満開。  
   登路脇のミツバツツジが満開。(1)  
   小五郎山山頂からの眺め:中国自動車道の後方に鬼ケ城山、その左後方にかすかに大峰山。霞んで視界が悪かった。

 
   下山時に滝の側で休憩。  
   登路脇のヤマシャクヤクは未だ蕾でした。  
   イワカガミの群生地に一株ほ花が咲いていた。  
   登路脇のエンレイソウ  
   ミヤマキケマンの花が登路脇に点在。  
   ラショウモンカズラの花  
   蕾状態のフデリンドウ  
   ヤマブキの花が咲いていた。  


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